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2010年3月17日水曜日

自己愛とアイデンティティ

こんにちは。早川です。
ご返事が遅くなってしまいすみませんでした。
さて、今回は自己愛がテーマですね。

●不安定な自己愛ではアイデンティティは追求できない
まず初めに「自己愛、個性、アイデンティティの定義」を確認しておきたいと思います。自己愛(=ナルシシズム)は「自分の容姿に陶酔し、自分自身を性愛の対象としようとする傾向」(『大辞林』)となります。これは「過剰な自己愛」を表現していますが、私なりに言い換えると、自己愛が過剰な状態とは「自分自身のことへのこだわりが強く、他のことに関心が向かない状態」ではないかと思います。

次に個性ですが、これは「個人・個物を他の人・物から区別しうるような、固有の特性。パーソナリティー」(『大辞林』)とあります。つまり、本人の気持ちがどちらに向いているかを自己愛が示しているのに対して、個性はその人の持っている特性を示しているわけですから、次元がだいぶ異なる概念になります。例えば「自己愛的な個性」という言い方はできるでしょうが、個性はそれ以外のいろいろなことに及んでいるでしょう。逆に、自己愛はどの人にもあるものですから、あるのが個性というわけではなく、過剰だとその人の目立つ特性になる、ということだと思います。

最後にアイデンティティですが、「自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。「―の喪失」」(『大辞林』)とあります。言い換えると、「"私はこういう人間です"と本人自身が捉えていて、一貫しようとしている"その人らしさ"」ということだと思います。例えば、「きちんと仕事をやるのが私らしい」というアイデンティティがあるから、周囲はその人を継続して信頼できるし仕事を任せられるわけです。逆に言えば、アイデンティティがない人は不安定で、周囲の人はなかなか信頼できないことになります。

発達心理学的に言えば、このアイデンティティを確立するのは思春期後期と呼ばれる時期で、いわゆる高校生の時期に当たります。ただしこれは、ある程度安定した自己愛があってこそ取り組めます。自己愛が不安定なままだと、本当の自分の姿と真正面から向き合う作業はとても苦しく、死にたくなることもまれではなくなります。結局のところ、それまでの人生(といっても10数年ですが)の中でいかに安定した自己愛を持てているかにより、アイデンティティの確立に取り組めるかどうかが決まってくるように思います。

つまり、自分自身へのこだわりやどのように見られているかの不安が強い中では、周りから信頼されるアイデンティティの確立は難しく、ともすれば「みんなからほめられる、否定されない、という"アイデンティティ"」になってしまいます。でも、誰に対してもほめられようとしてしまえば本人の一貫性はなくなり、コロコロ変わる不安定な人格になってしまいますよね。

そう言えば、昔から若者には「芸能人になりたい」「テレビに出たい」という気持ちを持つ人が多いですよね。そして、その背景にあるのは「私が納得できる仕事がしたい」という気持ちではなく、「注目されたい、目立ちたい」という気持ちでしょう。「私が納得できる仕事がしたい」という気持ちを「アイデンティティの追求」とすれば、「注目されたい、目立ちたい」は「自己愛の充足」に当たるでしょう。自己愛はとても重要なものですが、それが不安定なままでは自己愛こだわるあまり社会的に信頼される存在を目指していけない、ということになります。結局のところ、現代の日本人が高めたのは「個性」ではなく、「自意識」だったということなのでしょうか。

●アイデンティティ追求という苦しいことがないのは不幸なことか
さて、大森さんが提起した一つ目のテーマは「なぜそのようになってしまったのか」ですが、実はこのような現象は日本だけではないようです。私もあまり詳しくはないのですが、「ジェネレーションY」と呼ばれる両親ともに戦後生まれである世代――1970年代後半以降の生まれ――は、アメリカでもナイーブで自立心が乏しいと言われているようです。原因はいろいろと分析がされていますが、現代社会においてはアイデンティティを追求するより自己愛的である方が生きやすいのかな、と思ったりしてしまいます。物質的にも豊かですし、「自分は何者か」などという大変精神的に負担のかかることに取り組まずとも、日々を楽しく生きていけるし、それで充分じゃないか――。

実際、「子どもに苦労させたくない」と考える親御さんも多いですよね。しかし、アイデンティティを追求するのは、周囲からシビアな現実を突きつけられた時なのです。ぬるま湯と言われる穏やかな時代だからこそ、アイデンティティ確立に若者が向かわないとして、それは不幸なことなのか。これは、戦後目指した「豊かな社会」に対しての根本的な問い直しなのかもしれません。

●現代において得られにくい「安定した環境」
大森さんの二つ目の問いは「安定した自己愛」についてですが、施設や病院では「安定した環境づくり」をしています。地震などのトラウマ体験をした後、PTSDを発症しないために最も重要なことは「安全・安心な環境」ということになります。被虐待児ということで言えば、家族からの虐待体験ならば「家族に当たる人物が安全であると実感できること」が重要でしょう。少しコメントをしておくと、「君が必要だ、居て欲しい」というような関わりはむしろ自己愛を肥大化することにつながりかねず、あまりよくないように思います。「そのままのあなたでいていいと思うよ」というような穏やかな関わりがいかに安定して継続して提供できるかだと思います。

つまり、「安定した自己愛」のためには「安定した環境」なわけですが、結局のところ問題は「この“安定した環境づくり”がいかに難しいか」ということだと思います。すなわち、家族の構成員たち自身が、自分自身の問題を抱えているとして、さらに誰かを安定させる余裕を持てるかどうか。それが難しい時代になっているんだと思います。

「カウンセリングというものがありますが、現代においては「昔ならば身近な人との間で自然となされていたような関係がなかなか得られなくなっているので、治療の中で実現している」という側面が強いように思います。みんな、自分のことで精いっぱいで、お話をするにしても自分のことを話す人ばかりで、話を聞いてくれる人はとても少ない。「自分のことで精いっぱいな時代」を生きていかなければならないとすれば、やはり自己愛の問題を抱えて生きていくと、支えてもらえなくてなかなか生きづらくなるでしょう。現実的にはどのような仕組みが社会に必要なのかはわかりませんが、自分の自己愛にこだわらずに済む段階まで精神的に発達しておいた方が、結局生きやすいのではないかと思います。

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